「読む」ことと「読まれる」こと。

 どんな一編の詩でも閉じられた書物の中では屍である。みたいなことを寺山修司さんがどこかで書いていた気がする。それならば、閉じられた書物を開けば屍は蘇るのだろうか。しかし、本当の問題は「読む」ことと「読まれる」ことの差異にあるのではないだろうか。

 まず、「読む」ことの経験について書きたいと思う。大学時代、様々な文章に触れて、いつかは自分がまだ誰も書いたことも読んだこともないような文体を手に入れようと日夜、本を読んでいた。とっつきやすい本は一切なく、他人から見れば奇書と呼ばれたり、いわゆる「変わった」ことが書いてある本ばかり読んでいた。詩的な、あまりにも詩的な小説を書くブローティガンをはじめに、ドナルド・バーセルミアルフレッド・ベスターレム・コールハースコールハースに関しては本の装丁、フォントに関してまでが文体だとさえ思った。)、レーモン・クノー……と言った具合に一癖も二癖もあるような本を少しずつ原書で読んだり、和訳されたものを読んだりしていた。それと日本人の方なら土方巽さんの「病める舞姫」に関してはただただ感動した。日本語があんなにも簡単に自分の手の中から、すり抜けていく感覚は初めてだった。

 そんな本たちに出会ったのは紛れもなく図書館だ。僕の通っていた大学の図書館はありがたいことに上記の作家の本はほぼ所蔵されていたので読み放題であった。大学の講義で、少しでも空きがあれば図書館に行っては本を開いて読んだ。今思えば、僕は何人の聖者を棺から呼び覚ましたのだろうか。そして、本から溢れ出ていたであろう声にならないものをどれだけ感じ取ったのだろうか。あるいはそれは自分の叫び声だったのかもしれない。僕が思う「読む」体験で鮮烈に記憶に残っているのはやはり大学時代だった。

 次に、「読まれる」ことについて。僕が読まれることを思い出すのは、夏休みの読書感想文だ。僕は小説を読むことが好きで大学では、小説を書くことを勉強していたけれど、小中学生の時に課題として出された読書感想文と生活作文が大の苦手だった。読書感想文に関してはその本に作者の言いたいことが詰まっているのだからそれを読めばいいと開き直っていたし、生活作文は写真や動画の方がよく伝わると思っていたからだ。それに書かされる文章が嫌いだった。と、言い訳ばかり出てくるが、要は面倒くさかったのだ。だけど、それは別に「読む」ための文章ではなく、誰かが評価するための「読まれる」文章だったからだと今になれば考えられる。やはり、何かを読んでほしいのだ。しょうがなく、仕事だからで読まれる文章は、屍以前の問題で、それは元から生きていない無機質な物なのだ。

 僕はこれから「読む」ための文章を書く、決して「読まれる」ための文章ではなく。