書きたいけれど、書けないことと書き始められないこと。

 仕事を辞めた。思いもよらない奴と慕っていた人が亡くなった。僕はこの先の未来のことはまるでわからない。だけど、やっぱり物語を書こうと思う。自分自身があまりにも情けなくて何度も泣いた。「明日こそは」と何度呟きながら泣いたんだろう。それでも変わっていかない日々に侵されながら僕の人生は刻一刻と過ぎていっている。困ったものだ。僕が尊敬をする人たちはそれぞれにどんな想いを持って文章を書いているのだろう。わからないから、少しでもわかりたいと思った。そして、どんなに暗くて動けない夜が来ても、ユーモアを最後まで手放さずに持とうと思う。どれだけ周りの人間に言葉で殴られて、刺されて、心の中の中の更に細かい臓器みたいなものが飛び出したとしても、持っていたい。社会は僕に死ねと言っているのかもしれないと考えたこともあった。ロープもカッターナイフも両手に持った。だけど、死ぬ勇気は持ってなかった。ダサくていいから、生き続ける惰性さを持っていたのかもしれない。それでこんなものを書いているのだから。

自分の好きな街の中で起きる冒険譚を書きたい。どうしようもならない現実に苦笑いをしながら、必死に生きるあいつを書きたい。

リチャード・ブローティガンブローティガンの小説を日本語で表現した藤本和子さんそして、サリンジャー高橋源一郎さん、早川義夫さん、糸井重里さんのような文章を書きたい。僕は書くことにすら臆病になっていた。それでもやろうと思った。

小説と映画とロックンロール

結局、去年に書いたブログは一つだけだった。困ったものだ。もう少し、今年は頑張りたい。

 

1、小説について。

 高校生の頃、クラスの誰よりも早く教室に着いていた。朝の教室の雰囲気が本当に好きだったのだ。たったそれだけの理由で片道6、7kmの道をチャリでかっ飛ばしていた。夏は制服が肌にピッタピタに吸い付くくらいの汗を掻いた。冬はまだ陽が昇る前からチャリを漕ぎ出していた。そうまでして一人の教室を味わいたかったのだった。

 一人の教室には喧騒が始まる前の独特な静寂がいつもあった。それをどうするわけでもなく机に突っ伏して寝ていたりした。本当にただそれだけで良かった。時々、本当に時々だけれど終わらなかった課題をやることがあった。その時は自分一人で喧騒を作り出していた。主に英語の課題に。

そんな朝が続いていたある日の事だ。何を思ったのかその前の週末に図書館に行った。今思い出してみてもどうしてあの時に図書館に行ったのかは分からないし、思い出せない。そこで本を借りたのだった。

 芥川龍之介の「侏儒の言葉」ともう一冊が高橋源一郎の「ジョン・レノン対火星人」だった。芥川龍之介の本は高校の国語の教科担当に教えてもらった本だった。その教科担当が言うには「便所で読むもいいし、エロ本を読みながらグータラした昼下がりに読むにはもってこいの本だ。」と言われ、読みたくなったのだった。もう一冊の「ジョン・レノン対火星人」はザ・ビートルズを聴くのに少しだけハマっていてタイトルを見て、「そうか、ジョン・レノンは戦争に反対をしていたけど火星人と戦っていたのか。それは知らなかった。」と思い借りてみた。それでも、この二冊の本が自分の人生の進み方を教えてくれる事になるとはその時は思ってもみなかった。

 

続く。

ウィークエンドマザーグースについて。

突然に始めてみようと思った。大学時代は「小説」を書きたいと思って「小説」のことを勉強した。勉強したというよりも、読んだ。その中でも一番好きだったのはリチャード・ブローティガンだった。

 

何かをどうしようと言うつもりはないけど、ここから始めたい。

主に何か素敵なことが起こる週末に書きたい。できれば自分が好きな街と世界のことを書きたい。

「ウィークエンドマザーグース」は思いつきで単語を組み合わせて作ってみた。言葉にできない言葉を拾いたいそれだけなのだ。