作られた非日常=とんでもないくらい面白い日常であってほしい。

 ちょっと前に自分のtwitterでこんなことを呟いた。「ヴィレバンで瓶コーラを買って、テレビでテキトーにタランティーノ映画をBGM代わりにかけて、色褪せたAKIRAを読みたい。」みたいなことだった気がする。

 この一文の中に入ってるものは全部好きなものしかない。twitterみたいなサービスを使う際には、一応、自分の中では他者の否定や非難はしないと決めている。(過去の呟きを全て確認していないので、否定や非難をしていたら申し訳がないですが……。)そんなこともあって、結局好きな物のこととかしか呟かない。バランスの良い呟きとは?という話になったらそれはそれで問題になりそうで、大いに考えたら面白くなりそうではあるけども。

 そんなこんなで、僕は日常の中で日々機能している非日常が大好きです。それは紙媒体でも、映像媒体でも関係はありません。その証拠に、もっと現実見た方がいいよ笑なんてことを時々言われます。それくらい創られた物にどっぷり浸かってる時があります。それは所詮、商品で金儲けの為に作られている物もあります。それでも自分は楽しんでいたりするので、気にならないのですが、そんな物の中にそうではない物があります。売れることも加味されてはいるかもしれないけれど、俺は、私はこんな表現してます!と高らかに宣誓している物がひょっこりと現れます。僕はそんな出会いがしたくて、作られた非日常の中で日々を過ごしています。それは時として、とんでもないくらい面白い日常を過ごしていると言えるかもしれません。遠い遥か彼方の銀河系や東京がよりパワーアップした都市やダイナーで繰り広げられるダーティな会話がそれにあたるのでしょう。

 今日も抽象的なことしか書いていません。もっと具体的に伝えられるようになりたいです。

僕らが自転車に乗る理由

 「せっかく高いお金で免許取ったんだし、社会人なら車くらい乗れんと困るでしょ」と母や父に言われてやっと近くのスーパーやら公園に車で行くようになった。車はやっぱり快適だ。クーラーはついてるし、いいナビも付ければ道案内もしてくれる。おまけに気分が高鳴る音楽も流せる。ペダルを踏めば、速さもグングン上がって最高時速すらすぐにマークできる。だけど、僕はというより、僕らは自動車ではなく、自転車のペダルを漕ぐのだ。今みたいにクソ暑い夏も、ちょっと雪がチラついて風が痛いくらいの冬も自転車に乗ってペダルを漕ぐ。僕ではなく、僕らと書いたのはなぜかそいつらと会う時は、なぜか自転車で集合して、どこかへ行く。ちなみに乗る自転車もスポーツタイプではない。ママチャリ、オバチャリと呼ばれる物で、チェーンに錆があって、グリップのゴムが取れかけているような自転車に乗っていた。

 きっと、自転車にあって、車にないものは「汗を流す」ってことだ。この「汗を流す」ってことは楽しくなる。できれば一人よりも二人で二人よりも、大勢で分かち合えば合うほど、面白くなる。

 なんてことを書いてみても、今年の夏は自転車に乗ってどこかへ行ったら倒れてしまいそうだ。

The movie is yours.あるいは、「あの映画」への感想

 映画「スカーフェイス」でロバート・デ・ニーロ演じるトニーモンタナが最後、銃弾で蜂の巣にされてその後に映る像に「The world is yours.」というメッセージがあり、そこで映画は終わる。僕は大学生時代にその映画に一種のカタルシスを味わった。いい映画とはジェットコースター的にフラストレーションが発散される映画なのだろうか。僕はそうでないと考える。いい映画はその向こう側に作った人々の人生が見えてこなければならないと考えている。

 なんて、映画に関して、創作に関してウダウダ言う前に何か作れ!と自分で自分を奮い立たせながら文字を打つ今日この頃です。

 でも、本当に無知で無名で無謀な挑戦をした人々はきっと、英知なんていう物を馬鹿馬鹿しくあまりにも馬鹿馬鹿しく飛び越えて、僕に勇気を届けてくれました。それとやっぱり面白い物を書きたいっていう嫉妬もご丁寧に頂いた。そんな映画「カメラを止めるな!」は絶賛公開中。

無限と永遠の違いについて

「お前の好きなバンドのアルバム、新しいの出ても全部曲一緒じゃん。」 

ふと、友人からこんなことを言われたのがきっかけで、「無限」と「永遠」の違いについて考えることになった。きっと、そんなものは聴いた人の個人差だと言ってしまえば、それで終わってしまう問題なのかもしれない。けど、僕はその個人差の中にもきっと話したり書かれたりしなければいけないことがあるのでは?と考えた。確かに、僕の好きなそのバンドは一言で言ってしまえば真っ直ぐなのだ。どこまで行っても一本道で突き進む。それは雷雨が来ようとも、嵐が吹こうが、目の前で灼熱と極寒があろうかなかろうが、関係ない。それが良さだ。けど、きっとそれが毎回で聴く人によったら「またかよ。」と思うのだろう。食事で言えばずっと好きな食べ物をずっと食べているのだ。けど、僕は飽きない。飽きるというより、聴けば聴くほど、それを食べれば食べるほどに、そこには何かしら満たされぬ欲望がある。飢餓がある。そこに現れるのは「永遠」だと思う。かつて、アメリカのある詩人が永遠についてこう書いた。「永遠とは、一瞬の積み重ねなのだ。」そこには平均的で一律な物はない。ただ、ずっと続く物がある。それが「永遠」だ。

じゃあ、「無限」はどこにあるのだろう?僕は別にノンポリであるが、それは資本主義の中にあるのだとも考える。ファストフード、コンビニエンス等々。僕は両方とも好きだ。だけど、あそこにあるのは「無限」だ。減ることは今後、ほぼ無いに等しい。そんな物の中にどっぷり浸かる自分も好きだけど、やっぱりそことは一線引く物に憧れてたりもするのだ。いやはや、複雑なのだ。

「読む」ことと「読まれる」こと。

 どんな一編の詩でも閉じられた書物の中では屍である。みたいなことを寺山修司さんがどこかで書いていた気がする。それならば、閉じられた書物を開けば屍は蘇るのだろうか。しかし、本当の問題は「読む」ことと「読まれる」ことの差異にあるのではないだろうか。

 まず、「読む」ことの経験について書きたいと思う。大学時代、様々な文章に触れて、いつかは自分がまだ誰も書いたことも読んだこともないような文体を手に入れようと日夜、本を読んでいた。とっつきやすい本は一切なく、他人から見れば奇書と呼ばれたり、いわゆる「変わった」ことが書いてある本ばかり読んでいた。詩的な、あまりにも詩的な小説を書くブローティガンをはじめに、ドナルド・バーセルミアルフレッド・ベスターレム・コールハースコールハースに関しては本の装丁、フォントに関してまでが文体だとさえ思った。)、レーモン・クノー……と言った具合に一癖も二癖もあるような本を少しずつ原書で読んだり、和訳されたものを読んだりしていた。それと日本人の方なら土方巽さんの「病める舞姫」に関してはただただ感動した。日本語があんなにも簡単に自分の手の中から、すり抜けていく感覚は初めてだった。

 そんな本たちに出会ったのは紛れもなく図書館だ。僕の通っていた大学の図書館はありがたいことに上記の作家の本はほぼ所蔵されていたので読み放題であった。大学の講義で、少しでも空きがあれば図書館に行っては本を開いて読んだ。今思えば、僕は何人の聖者を棺から呼び覚ましたのだろうか。そして、本から溢れ出ていたであろう声にならないものをどれだけ感じ取ったのだろうか。あるいはそれは自分の叫び声だったのかもしれない。僕が思う「読む」体験で鮮烈に記憶に残っているのはやはり大学時代だった。

 次に、「読まれる」ことについて。僕が読まれることを思い出すのは、夏休みの読書感想文だ。僕は小説を読むことが好きで大学では、小説を書くことを勉強していたけれど、小中学生の時に課題として出された読書感想文と生活作文が大の苦手だった。読書感想文に関してはその本に作者の言いたいことが詰まっているのだからそれを読めばいいと開き直っていたし、生活作文は写真や動画の方がよく伝わると思っていたからだ。それに書かされる文章が嫌いだった。と、言い訳ばかり出てくるが、要は面倒くさかったのだ。だけど、それは別に「読む」ための文章ではなく、誰かが評価するための「読まれる」文章だったからだと今になれば考えられる。やはり、何かを読んでほしいのだ。しょうがなく、仕事だからで読まれる文章は、屍以前の問題で、それは元から生きていない無機質な物なのだ。

 僕はこれから「読む」ための文章を書く、決して「読まれる」ための文章ではなく。

 

好きなことについて

 小説だのという前に、リハビリと言わんばかりな自分のことを書こうと思う。

 まず、好きな音楽の話。一番最初にこの音楽いい!って素直に思わされたのは、高校生の時だったと思う。高校時代、放送部に入部していた僕はそこの先輩に二枚のCDを渡された。その二枚が銀杏BOYZだった。まず、その二枚はオリジナルからコピーしたCDだったのだけれど、その真っ白な円盤にはそれぞれのアルバムのタイトルが書いてあった。「ドアーズ」と「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と書かれていた。(確か本当のジャケットはドアーズの方が様々な写真のコラージュ風なデザインで、君と僕の〜の方が江口寿史さんが描かれた綺麗な女の子だったはず。)明らかに割ったようなCDをいきなり手渡されて困惑したけれど、それをそのまま家に持ち帰ってUSB型のウォークマンにデータを入れて聴いた時の驚きは今でも忘れられない。何をどう受け取っても青臭過ぎる自分が居た。絶対に居た。今でもそれは変わってない。ことあるごとに辛い時はあの二枚のアルバムを聴いている。

 ただ、そんな青春パンクにどっぷり浸かっていたというありがちな音楽の話だけではない。僕にはどうしても思い入れのある一曲がある。それはアイズレー・ブラザーズのshout!という曲だ。ザ・ビートルズのtwist and shoutという曲を知っている人も多いことだろう。元々はその曲はアイズレー・ブラザーズのカバーで僕もそれを知るまでは恥ずかしい話、ビートルズのオリジナルだと思っていた。そんなアイズレー・ブラザーズが作ったshout!という曲が僕は大好きだ。何も物事は進みはしないし、後退するわけでもない。だけど、その地点からは動きたくない。ずっと、そこに居たくなるような感じがするのだった。有名な名言でザ・フーのギタリストでピート・タウンゼントがこんなことを言っている。「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし逃避させてもくれない。 ただ、悩んだまま躍らせるんだ。」まさにそんなことを体現したかのような曲なのだ。ジャンルはロックンロールではなく、ソウルに入るのだと思うけれど。

できるだけ書き続ける練習をすること

大学生の時に、文章は筋力と同じで書き続けなければ力は衰える一方だと言われた。それなのに僕は今日はいいや、だの、思い浮かばないだのと言い訳をしては寝ていた気がする。これでは、いけない。なるたけ昨日から書くと決めて書くことにした。

 

そういえば、卒業制作として小説を執筆している時、尋常ではないくらい疲れていた気がする。あの感じを取り戻そうと思う。参考文献も嫌というほど読んだし、文体を模写しては消して、自分のもののように書けるようにと練習したものだった。最近、そんな卒制を読み返したのだが、ある意味では良かったと思った。一応、ギリギリ、本当にスレスレの所で小説の体をなしていたのだ。僕はそれにひとまずは安心した。だけど、それとは裏腹に不安な点もでてきた。それは次の作品を書き始めることだ。もう題材は決めているし、登場人物もわかっている。それなのにイマイチ書きあぐねいている自分が居てしょうもない。なんとかして平成最後の夏を執筆で乗り切りたいものなのだ。